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名僧夢窓疎石が開創した禅刹
天龍寺(てんりゅうじ)
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
075(881)1235
8時30分~17時30分
(10月21日~3月20日は8時30分~17時)
庭園500円 (諸堂参拝との共通券600円)
京福嵐山本線 嵐山駅下車徒歩2分
夢窓疎石 (むそうそせき) と天龍寺船
嵯峨野の寺社めぐりは天龍寺からはじまる。京福 嵐山本線の終着駅「嵐山」の目の前が天龍寺の境内である。
天龍寺は創建当初、いまの清凉寺 あたりから嵐山までその範囲とするほど広大な寺域を誇り、京都五山の格付けで南禅寺を別格として天龍寺が第一位であった。それは足利尊氏 が夢窓疎石 の法統に末代まで帰依して天龍寺を加護する置文 を残したように、尊氏以下、室町幕府の絶大な支援があったことによる。
天龍寺の開山夢窓疎石 (1275~1351) は肖像や頂相 (注1)などをみればわかるが、柔和な顔と極端な撫で肩の弱々しい体躯で、どこに以下に述べる偉業をなしとげたエネルギーと政治的手腕がひそんでいるのかと思うほどである。
建武新政 (注2) をおこない南朝を樹立した後醍醐 天皇が1339年 (暦応2) に崩ずると、夢窓疎石は、天皇と対立関係にあった足利尊氏や弟の直義 に後醍醐帝の菩提を弔うため一寺の建立を勧める。尊氏もかつては信任を得ていた天皇を懐かしみ、かつ自責の念もあって、荘園を寄進して建築を支援するが、それでも十分な資金の調達ができず、夢窓疎石は、直義に計って中国の元 (げん) との貿易船「天龍寺船 」を計画する。
この天龍寺船は1342年 (康永元)秋に渡航するのだが、疎石は、博多 商人に船の運営をゆだね、利益がどれほど多くても少なくても、5000貫文を寺におさめる約束をさせる。これにより伽藍の建築は進捗して、1345年 (貞和元) 8月、後醍醐天皇の七周忌法要とともに開堂大供養が催された。一禅僧が天皇の菩提寺を立案し、元との貿易を企画して資金を集めるという大事業を成しとげたのである。
しかし、豪壮な七堂伽藍を誇った天龍寺だが、660余年あまりの歴史のなかで8回も焼けている。1358年 (延文3) の火災が最初で、以後1380年 (康暦2) の4度目の焼失まで2世の春屋妙葩 により再建、5度目は放火といわれ、堂宇のほか伝わっていた文書すべてが焼けてしまう。その次は応仁の乱により、そして江戸期に入り1815年 (文化12) に焼失し、そして最後は幕末の蛤御門 の変 (1864年) (注3) に破れた長州 軍の宿営地であったことから薩摩藩によって大砲が打ち込まれ焼かれてしまう。現在私たちがみる建物は明治以降の建築である。
諸堂と借景の名庭園
天龍寺の参道に入ると、中央に放生池と広い樹木地、左右に甍 を連ねる塔頭の塀をみて、正面の法堂にいたる。この法堂は通常は非公開であるが、堂内に釈迦像と夢窓疎石、足利尊氏の木像を安置する。また、天井の龍の絵は、近年になって加山又造 の「雲龍図」が掲げられた。
拝観受付のある庫裏 から本尊の木像釈迦如来坐像を安置する大方丈に入る。東庭は静かな白砂敷の庭、西は広縁の先に曹源池 を中心とする庭園、書院から廊下を渡って、1934年 (昭和9) に完成した後醍醐帝聖廟の多宝殿 をめぐる。いったん庫裏に戻って、庭園入口から大方丈をぐるりと回ると、名庭として名高い池泉回遊式の天龍寺庭園が広がる。曹源池を中心に亀山 や嵐山を借景にして、池の周囲をかこむ樹林が、春夏にはみずみずしい緑に、秋には黄赤の彩りをみせる。
作庭は夢窓疎石で疎石はほかに、等持院 (注4)、西芳寺 (苔寺)などの庭も手がけたといわれている。
北門から出て右へ行くと、黒木 の鳥居で知られる野宮 神社で、いよいよ嵯峨野散策の佳境に入っていく。
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