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精選した京都の50余の寺社について、その歴史、建物の特徴、建立の由来などを日英対訳で紹介するガイドブック「寺社を歩けば京都がわかる」より、「龍安寺」「石清水八幡宮」「天龍寺」を無料公開中です。

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禅境の極みという「石庭」は何を語る

龍安寺(りょうあんじ)

龍安寺(りょうあんじ)京都市右京区龍安寺御陵ノ下町13
075(463)2216
8時〜17時、(12月〜2月は8時30分〜16時30分)
500円
http://www.ryoanji.jp/
京福北野線 龍安寺駅下車徒歩7分

臨済宗妙心寺派の龍安寺北側に庫裏と方丈が建ち、方丈の前庭がその著名な「石庭」である。東西25m、南北10m、油塀 (注1) に囲まれたごく狭い空間に砂紋を描いた白砂を敷き、15個の石、立ったものもあれば、 ()したもの、周囲に杉苔を生じたもの、白砂にほとんど埋まったもの、それぞれの石が無造作に点々と配されて、ほかには一木一草とてない。この白砂に置かれた15の石を、虎が子を背負って川を渡るようすをあらわしたもの (「虎の子渡しの庭」という)、七五三の配置の妙、仏教の教えによるものなど、いろいろにいわれ、ともかく禅境の極みとされている。

油塀 (あぶらべい)

もともとは城郭の補強用に油を混ぜて練った土で築いた塀。

石庭の禅味を教えたアメリカ人

禅とは何か、それを簡潔に答えられる日本人はどれほどいるのだろうか。「石庭こそ禅の心である」といわれても、凡人には、どこか釈然としない、解答のでないもどかしさが残るだけだ。

それに、この石庭を禅の芸術的表現の第一等と私たちに教えたのは、アメリカの彫刻家イサム・ノグチ (注2) である。それも第二次世界大戦後のことで、古くから、今日のように騒がれていたわけではない。

イサム・ノグチ

1904〜88。詩人の父野口米次郎とアメリカ人作家の母との間に生まれる。彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家、舞台芸術家として活躍。

室町幕府の管領細川勝元 (ほそかわ かつもと)は妙心寺の義天玄承 (ぎてんげんしょう) に深く帰依しており、徳大寺 (とくだいじ)家 (注3) がもっていた山荘を譲り受けて、1450年 (宝徳2) に義天を住持に招いて龍安寺を創建した。しかし自身が東軍の主将となった応仁の乱で焼失、勝元も1473年(文明5)に没する。勝元の子細川政元 (まさもと)特芳禅傑 (とくほうぜんけつ)をまねいて再建、塔頭も21院と数えるまでに隆盛したが、1797年 (寛政9) の火災でほとんどの堂宇を焼失してしまう。

徳大寺家

平安後期からはじまる藤原氏閑院流で清華家 (摂家の次の位)。家名は衣笠の山荘に建てた徳大寺に因む。

その後、塔頭西源院 (せいげんいん)の方丈を移築し、庫裏も同時期に再建、また1981年 (昭和56) に開山堂を建立した。現在、龍安寺の主だった建物はこの三堂だけである。

西側の樹林の道を歩き、境内を広さをたしかめながら、鏡容池 (きょうようち)の池畔をめぐる遊歩道をのんびりと散策するのも、景色が広く、狭く不可解な「石庭」を眺めたあとならなおさら心が晴れ晴れとしていいものである。

注1: 油塀
もともとは城郭の補強用に油を混ぜて練った土で築いた塀。

注2: イサム・ノグチ
1904〜88。詩人の父野口米次郎とアメリカ人作家の母との間に生まれる。彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家、舞台芸術家として活躍。

注3: 徳大寺家
平安後期からはじまる藤原氏閑院流で清華家 (摂家の次の位)。家名は衣笠の山荘に建てた徳大寺に因む。

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